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ニーチェと悪循環 ピエール・クロソウスキー 兼子正勝訳 哲学書房

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1989年6月10日初版2刷 帯付 帯背ヤケ・少シワ 三方微ヨゴレ ※ 永却回帰の啓示が、人格の同一性の下に蠢く無数の〈強度〉を解放する。言語の秩序の手前にあって、名前も形も意味も欠いた〈強度〉に自らを開くニーチェの思考は、明晰と錯乱と陰媒のアマルガムだ。いま〈わたし〉の中にあって〈わたし〉ではない不定形の力が〈わたし〉に勝つ。これは、ニーチェを語り得る場所を指し示す、今世紀最大の力業だ。(版元宣伝文から) ※※ 目次 文化との闘い 欲動の記号論の起源としての病的諸状態 永劫回帰の体験 頽廃、躍動、集団、個別的ケース―四つの基準の起源としての病的諸状態 永劫回帰の科学的説明の試み 選別の教説としての悪循環  永劫回帰の政治的ヴァージョン  悪循環の陰謀 父の亡霊との対面 病者によるもっとも美しき発明 トリノの陶酔 ニーチェの記号論に関する付記 訳者後記 ※※※ なにしろ表題がすばらしい、ニーチェのその名に「悪循環」ということばを添えているだけで、この本が紛う事なき名著であることは疑いの余地がありません(笑)・・・などといった、半ば本気ながら半ば冗句は「上句」までといたしまして・・・この本はニーチェの哲学の解説本ではありません。ニーチェという「存在」そのものを著者クロソウスキー独自の視点(欲望、身体、衝動、資本)で解体・再構築した一書です。  クロソウスキーは、哲学や思想を頭ンなかの問題として(だけ)で話を終わらせるひとではありません。ニーチェの思想が、彼の精神の病理や身体的な衝動、さらには言語の限界とどう関連していたのかを論じています。キーワードは「永劫回帰」。ここでひとつ、崩壊しかかっている「自我」が渦巻くメエルシュトレムに巻き込まれている状態を想像してください・・・頭ンなかで「永劫回帰」を叫べば、身体が反応する・・・身体の内でうごめく「諸衝動」が、「自我」という記号を解体して、同じものが繰り返される「悪循環」へと至った・・・だから「悪循環」。ここにおいて、ことば(記号)の壁(限界)も破ってしまったから、クロソウスキーに言わせれば、ニーチェが晩年に陥った「狂気」は、決して思想の破綻や挫折・失敗ではなく、むしろ彼の哲学の極限的な帰結ということになります。狂気が(哲学の)完成形なんですよ。  この著作は960年代のフランス現代思想(ポスト構造主義)に多大な影響を与え、ドゥルーズやフーコーも高く評価していますが・・・いやあ、クロソウスキー独自の用語法(「強度」「偽装」「貨幣的記号」など)が多用されるし、それにどう読んだって、ニーチェのテキストをかなり自分の思想に引き寄せて解釈していることは明らかです・・・って、フランスの哲学者がニーチェについて語ると、たいがい自分に引き寄せちゃっているんですけどね、デリダもドゥルーズも。ただ、このクロソウスキーの著作の場合、1960年代ですから、戦後になって、ニーチェを「力への意志」という政治的文脈から解放することが求められていた時期だったんじゃないかなとは思われます。精神医学の知見と記号論という「方法」まさに時代の流れ。とはいえ、「身体の生理」と「言語(記号)」という大鉈を振るったのはこのクロソウスキーが草分けだったのではないかな? 現代のニーチェ像に至る、第一歩なんですよ。  それに、ニーチェを「体系的な哲学者」ではなく、「諸衝動(強度の変化)が渦巻く場」としてとらえたのは、これも次のような側面から理解できるのではないでしょうか。つまり、そもそも思想というものは、はじめから体系的なのではなく、ときに変化し、そして転回する常に「状況的」なものなんですよ。そう考えれば、不思議なことでもなんでもない。よく、思想家や哲学者といった「人物」を取り扱う場合、たいがいの人は、もっぱらその対象となる人物の主著にあたるじゃないですか。ところが、思想家にしろ哲学者にしろ、その主著にばかり頼っていると、思想の変遷は見て取ることができても、それが「状況的」に移ろいゆくものであることをとらえきれなくなってしまうのではないでしょうか。だから「体系的にまとめよう」なんて意図はテンから無視してかかっても、一向にかまわないし、むしろ利するところがあるんですよ。  そこにクロソウスキー独自の解釈が加わると、まず、理性的な「考え」が先行するのではなく、意識下の「衝動」と、それを社会的に流通可能な「記号」に翻訳しようとする「理性」の葛藤をそこに見る。その結果、ニーチェ哲学を理論としてではなく、身体的衝動をことば(記号)に偽装したものとしてとらえることとなる。だから(と言っていいかどうか)、晩年の「狂気」を、「ついに言葉の壁を突破した状態」「純粋な衝動の世界に到達した瞬間」として、哲学の完成形であると考えたわけです。  余談ながら、ピエール・クロソウスキーの弟さんは、画家のバルテュス Balthus 、本名バルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラ Balthasar Michel Klossowski de Rolaですね。兄弟揃って立派なものです。妹に恵まれなかったニーチェはお気の毒です。(Ho)

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